何気ない会話の中で、自分の中の当たり前のことを、相手が知らなかったときに
「え…こんなことも知らないの?」
と、心の中で思ってしまう。
口には出していないのに、
でも、なぜかそのあともモヤモヤが残る。
相手を責めたいわけでも、見下したいわけでもないのに、
心に引っかかりが残ることはありませんか?
このモヤモヤは、
自分を守ろうとする無意識の働きがあります。
比較は「安心」を得るための行為
人は無意識に、比較を使って
自分の立ち位置を確認しています。
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自分のほうが上だと感じて、安心したい
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自分が下だと感じたとき、
あえて相手に理解のある人を演じることで、
関係のバランスを整えようと、自分の心を安心させようとする
どちらの場合も、目的は同じです。
不安を感じずにいたい
ただそれだけ。
相手を下に見たり、
逆に自分を物分かりの良い人の位置に置いたりすることで、
心の均衡を保とうとしているのです。
批判は「責任転嫁」の一形態
相手を心の中で批判しているとき、
無意識ではこんな前提が働いています。
「私が今ある状況の理由を、自分以外の何かに委ねている」
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あの人は未熟
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あの人はずるい
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あの人は分かっていない
そう思っている間、
自分の選択や決断、行動量を見直さなくて済みます。
批判は、
頭を使っているようで、実は思考を止める働きも持っています。
だから一時的には楽でも、
あとからモヤモヤが残るのです。
比較や批判が多くなるとき
人は自己価値を
内側ではなく外側で測っています。
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どの位置にいるか
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誰より出来ているか
「在り方」ではなく
「位置」で自分を確認している状態です。
本当に自分の軸に立っているとき、
他人の知識や選択、成長のスピードは
ただの情報になります。
感情が大きく動くときは、
本音を我慢している部分があるという合図。
自分の人生を自分で引き受けて生きていると、
他人を下に見たり、
自分を引いて見せる必要はなくなります。
もし、相手の言葉にモヤっとしたら、
自分を責める代わりに、
こんな問いを向けてみてください。
「私は今、何に安心したかったんだろう?」
「この関係の中で、どんな自分でいようとしているんだろう?」
心のモヤモヤは、
自分の在り方を整えようとするサイン。
気づけた瞬間から、比較や批判は、
少しずつ役目を終えていきます。
自分の軸に立つって、どういうこと?
「自分の軸に立つ」と聞くと、
ブレない人、強い人、悟っている人
そんなイメージを持つかもしれません。
もっと現実的なところから見ると・・・
自分の軸とは「他人を基準にしない判断基準」
自分の軸に立っている状態とは、
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相手より上か下か
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分かっているか、いないか
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評価されるか、されないか
こうした比較の物差しは使っていない状態です。
代わりに使っているのは、
たった一つの基準。
「私はどう在りたいか」
軸に立っていないとき、心の中では何が起きているか
相手を下に見てモヤモヤするとき、
実は意識はずっと外に向いています。
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相手はどうか
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私はどう見られているか
-
この関係の中で損していないか
その状態では、
自分の本音は後回しになります。
だから心が疲れる。
自分の軸に戻るための、具体的な3つの視点① 正しさではなく「選択」を見る
「どっちが正しいか」ではなく、
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私は今、どんな選択をしているか
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それは私が選びたいことなのか
正解探しをやめると、
比較は自然と静まります。
② 安心を外に取りにいかない
相手を下に見たり、
逆に理解のある人を演じたりするのは、
どちらも安心を外から得ようとする行為。
軸に立つとは、
「私はこれでいい」と
内側で完結させること。
「私は、今の私で大丈夫」
誰かに勝たなくていいし、
分かってもらおうとしなくていい。
③ モヤモヤを「軸ズレのサイン」として使う
モヤっとしたときは、
こう考えてみてください。
「今、私は自分の軸から少しズレている」
モヤモヤは敵ではなく、
戻るための合図です。
軸に立つと、相手はどう見えるか
自分の軸に戻ると、
相手はこう見え始めます。
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上でも下でもない
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正しい・間違いでもない
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ただ、そういう人
評価が消え、
情報として受け取れるようになります。
最後に
相手を下に見てしまう自分も、
理解のある人を演じてしまう自分も、
ただ、
「本当の自分の位置」から少し離れていただけ。
その感覚を思い出せたとき、
比較や批判は、
もう必要なくなっていきます。
そらなみのヒーリングは、 自分ではなかなか腑に落とせない感覚を理解するお手伝いをします⊹₊⟡⋆˚⊹